新耳袋 第六夜に収録されている怪談を自分なりに纏めています。
『来にまつわる十六の話』
自分たちの目の前に怪異がやってくるときは、何かを訴えようとしているのでしょうが、実は当の本人に全く縁のゆかりもないが、その特定の場所にいるだけで遭遇するといったお話も多いです。
第十三話 来客 『来にまつわる十六の話』
映画ぼぎわんを彷彿とさせる、気味の悪いお話。
正体不明の怪異のディティールに鳥肌が立ちます。
ドンドンドン、ドンドンドン、と玄関のドアを叩く音がする。家族の誰も出ようとしないので、Aさんが玄関に行った。
第十三話 来客 『来にまつわる十六の話』 より
「どなたですか」と、ドア越しに言うと「私よ。Hおばさん」という返事。
Hおばさんならよく知っている。でも声がHおばさんとは違う。
第二十二話 石碑 『来にまつわる十六の話』
調べてみたところ、お小夜塚(おさよづか)という、富山県五箇山(ごかやま)にある石碑にまつわるお話。不遇な伝承があるので、どこか物悲しい物語になっています。
『現にまつわる十六の話』
自分の目の前に怪異が現れるとき、何か良くないことを告げるといった怪談が多くありますが、
怪異の出現のバリエーションは様々です。
第五十四話 さちこおばさん 『現にまつわる十六の話』
親族の姿で現れる場合は、すでに当の本人がこの世を去っているパターンをよく見かけますが、
そうではないケースもあるようで、普段の彼女との印象のギャップに恐怖を感じます。
その日も、いつものようにふたり仲良くベンチに座って、お弁当を食べていた。
第五十四話 さちこおばさん 『現にまつわる十六の話』 より
すると向こうから、喪服姿で手に白い提灯をもった女性がやって来る。
第五十五話 滝の絵 『現にまつわる十六の話』
画というものは、非常に幽霊と親和性が高く、よく怪談のキーとして登場します。
このお話では、「山水画」というジャンルの画が出てきます。同じような画の種類で、「水墨画」もありますが、明確に違うようです。
同じ『墨』を使う技法ですが、絵師がとらえた物体の「本質」を主観的に捉えたものを描くことが重視する「水墨画」とは違い、「山水画」は、実際に存在しない創造の景色を描く作品が特徴のようです。
お話に登場した「山水画」も、ただの滝の風景が描かれているだけですが、「創造された景色」であり、そこに出現する怪異と考えるとより立体感のある怪談に思えてきます。
山水画(さんすいが)は、中国で発達した絵画のジャンルである。現実の景色の再現を意図した作品もあるが、型による山岳樹木岩石河川などの添景を、再構成した「創造された景色」が多い。
山水画 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『異にまつわる四つの話』
「異」という文字で真っ先に連想するのは、オカルトでは「異界」や「異世界」といった言葉でしょうか。
著書では、「どの章に属させればいいか決定できなかったもの」と表現していました。
第六十八話 柿の木 『異にまつわる四つの話』
この作品を読んだとき、ふと明治の大文豪である夏目漱石の古典、『吾輩は猫である』の作品の一文を思い出しました。
「首懸(くびかけ)の松は鴻の台でしょう」寒月が波紋をひろげる。
『吾輩は猫である』 夏目漱石より
「鴻の台のは鐘懸(かねかけ)の松で、土手三番町のは首懸(くびかけ)の松さ。なぜこう云う名が付いたかと云うと、昔しからの言い伝えで誰でもこの松の下へ来ると首が縊りたくなる。土手の上に松は何十本となくあるが、そら首縊(くびくく)りだと来て見ると必ずこの松へぶら下がっている。
本書の作中では、柿の木を見ると不思議と首を吊りたくなるといった主旨の短いお話なのだが、
古典の創作にもおなじような着想のモチーフがあることが興味深かったです。
こういった形式の話の要素として、特定の木(この場合は、立派な柿の木であった)に執着するといった点は古今東西の共通認識のようにも思えてきます。
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